護摩【小説】【ファンタジー】
井戸から引き揚げた籠を開ければすぐに、小さな白い猫が顔を出した。
少し痩せてはいたが、人懐っこそうな青い目はやんちゃそうに光っていた。鼻先に指を差し出すと、白猫は急に胸に飛び込んできて、そのまま肩の上にのぼって頬をなめた。
「いい子だね。よく生きた」
白猫は返事をしなかった。
近くに持ってきたごみ袋を井戸に落とすと、少しかがんで落ちていた枯葉も井戸に入れた。マッチを取り出して、火をつけると、すぐに井戸に投げた。弧を描いて、井戸の底に落ちていく。深淵に赤い光が生まれた。
「おっとあぶない」
炎の遥か上で、白猫の首根っこをつかむ。彼は足を滑らせて、肩からずり落ちていくところだった。
「猫のくせに、運動神経が悪いなんて」
ドジな子ほどかわいいって言うけれど、と白猫を籠に戻した。
籠を片手に抱えて、荒れた道を歩く。倒木や、がけ崩れの跡が生々しく残って、ここだけ、もう時が動くことはないのだと実感した。
ボートのところで、一度だけ振り返った。
最初と変わらず、欠けたお椀を伏せたみたいな島。半円から欠けた部分は、きっと土砂崩れで崩れたのだろう。血が混ざっているのかとぞっとしてしまうくらいに赤い土が露出している。
そしてその左側には、先端がぽっきりと折れた塔が見える。もしかしたら、この島独自の信仰があったのかもしれない。
でももうこの土地に人はいない。信仰の途絶えた神のことは、また今度でいい。
ボートに籠を置くと、ちゃぷんと波が立った。勢いをつけてオールでこぎ始める。どうせ沖に出たら、荒波相手にオールごときじゃ歯が立たない。だから今だけ、自分の力でボートを漕ぎたくなった。
籠がガサガサと揺れ、こぐ手を止めた。籠を開けると、白猫は膝の上に飛び乗ってきた。沈みかけの夕日に照らされて、真っ白の毛が太陽神のように美しく色づいていた。
島を歩いているとき、一度だけ白猫が鳴いた。確かぬかるみに足を取られて、転んでしまったときだった。その時に籠も落としてしまって、びっくりして鳴いたみたいだった。
高く、細い声で鳴いた。
「はあ疲れた」
日は沈んで、荒海の夜がやってきた。あたりが真っ暗で、星が驚くほどきれいで、「ああ、もう日は上ってこないんだな」と思うくらいに海の夜は長い。一人で過ごすには恐ろしすぎたけど、白猫がいれば夜空の美しさも忘れられる。
「改めてよろしくね、白猫ちゃん」
被災猫の守人